2012年11月18日日曜日

[2012.10.11] 何かの話をしよう
 ある大学でもこんな授業があったという。「クイズの時間だ」スカポーニュ教授はそう言って、昨日ホームセンターで買った大きな壺を取り出し教壇に置いた。「またですか」学生が毒づいたが、教授はめげなかった。「そう言うな。練習してきたんだ」その壺に、教授は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。「この壺は満杯か?」「いいえ」聡明な学生が答えた。「おそらく、じゃりと砂と水の入る余地が充分にあると思います」今日びの学生はこの手の話に飽きている。「続けよう」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。賽は投げられ、幕は上がり、領収書は切った。今さら後に退けないのだ。 そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間をじゃりで埋めていく。 そしてもう一度聞いた。 「この壺は満杯か?」 一人の学生が「おなかいっぱいです」と答えた。学級崩壊がついにここまで。 教授は「そうかね」と言い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。 教壇の陰からは水差しの姿もちらりと見えたが、学生たちは見て見ぬふりをした。昨今の学生のスルースキルは高い。 それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、教授は三度目の質問を投げかけた。 「この壺はこれでいっぱいになったか?」  学生は声を揃えて、「水!」と答えた。水を差すとはこのことだ。 教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。「僕が何を言いたいのか、わかるんだろうね」 一人の学生が面倒臭そうに手を挙げた。「壺は人生であり、大きな岩は人生で一番大事なもの。ヴェルタースオリジナルは孫にあげるべきということです。ティーチャー」「君にはAプラスを」と教授は言った。 「重要なポイントはそのとおりだ。この例が私達に示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事だ。先週この話をネットで読んで私は感銘を受けた。世の中にはこんな深いい話を思いつく、立派な人がいるもんだ」「先週て…五年くらい前にみたわ」「情弱乙であります」「なんなんだこのオッサン」口さがない学生たち。「だけどね」と、教授は壺の水面を見つめて言った。 君たちの人生にとって「大きな岩」とは何だろう、と教授は話し始める。 それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、自分の夢であったり…。 ここで言う「大きな岩」とは、君たちにとって一番大事なものだ。 たしかに、それを最初に壺の中に入れることができたら、そりゃすばらしいぜ。だけど、世の中そんなに甘くなかったりするもんだ。仕事に失敗してクビになったり、大きすぎる志に押しつぶされてしまったり、愛する人には振り向いてもらえなかったり、せっかくの家庭がなにかの拍子に崩壊したり、あれほど望んだ自分の夢も、結局かなわなかったり…。 気づけば人生という名の壺には、大きな岩はひとつも入っておらず、小さなじゃりや砂や水のような、重要ではない「何か」に満たされてしまっているんだ。これは気づいた時にはいつのまにかそうなっていて、その時にはもう、今さら取り返しなんてつかないのさ。 だけど、壺にたまったものが重要ではない「何か」だったとしても、それを捨てるわけにはいかないんだ。つまらない思い出、とるにたらない誇り、どうでもいい人間関係、少しばかりのお金…そういったものだって、やっぱり人生で手に入れた、他に代えようのないものだからさ。いや、君たちは若い、だから今気づけとはいわない。でも、もし、君たちが壺の中に大きな岩を入れることができたら、そのときに思い出してほしい。じゃりや砂や水を詰め込んでしまって、大きな岩そのものを見失ってしまった人がいても、どうか…笑わないで。 教授はそういって、懐から小さな白い花を取り出して壺にそっと挿すと、教室から出て行った。
ログとか残らないだろうから引用

せめて花が枯れない程度の人生は保ちたいですね。

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